今、世間では給食の“完食指導”において賛否両論があります。
“完食指導”は、私の小学校の時からありましたので、今さら…という感じも正直あります。
(私はアラフォー世代です。)
食べるのが遅い子や好き嫌いのある子は給食の時間で食べることができないので、食器は下げられ、まだ残っている給食はアルミホイルに移されました。
そして、アルミホイルのお皿で続きを食べるように先生に促され、その横で掃除が始まるのです。
これは友だちの姿でした。私は給食で苦労するタイプではなかったのですが、掃除をする横で給食を食べる友だちの姿に“かわいそう”という感情が生まれました。
当時は“完食指導”において特に問題視されることもなく年月が過ぎましたが、今さらであっても“おかしいのではないか?”と声が上がることは良いことに感じます。
誰のための“指導力”?
私の勤めていた保育園は、配膳や盛り付けは保育室でしていましたので個々の適量や好き嫌いを把握して、保育士が盛り付けていました。
お皿におかずを入れる時、苦手なおかずの時は「少なくして」と保育士に伝えることもひとつのルールにしていました。もちろん、最初から言えない子どももいるので、そんな場合は保育士から「食べられる?」と聞いて確認します。
保育士に「少なくして」と伝えた子どもには、「分かったよ。よく言えたね!」ときちんと伝えられたことを認めて量を減らします。
たくさん食べることができなくても、少量でも食べ切ることができた方が子どもの自信に繋がります。
“給食の完食ができない”と子どもが責められるような“完食指導”であれば子どもは自信がなくなり、自己肯定感も低くなってしまいます。
そして、それが原因で不登校になったり、トラウマになったりすることが現実に起きています。
また、完食が美化され先生の“指導力”が問われるので“完食指導”に熱が入る先生もいるそうです。
残食をなくすために“指導力”として、どんな工夫をしているか?子どもがワクワクして食べられるアイディアを提供しているのか?問われるところです。
熱の入れ方が子どもに対して圧力になるだけの“指導力”なら、とても残念です。
社会の中で大切なこと…。
私は“好き嫌いとサヨナラできる食育教室”をしていますが、教室で「〇〇は食べられない」と伝えた子どもの姿は先ずはしっかり受け止めます。
そこから、私なりに工夫やアイディアを施し、前向きに食の幅が広がるように子どもと関わっていきます。
私は子どもが「嫌だ」と言う気持ちを他者に伝えていくことは社会の中でとても大切であると思うのです。
これは、子どもが自分を自分で守る手段であるとも思います。
単なるわがままでなく「食べられない」と主張することは体調が悪いのかもしれないし、アレルギーがあるのかもしれない…その状態を把握している大人ばかりの社会環境とは限らないからです。
食の細い子ども、好き嫌いの多い子ども、またはアレルギーがある子どもを社会に送り出す保護者の心情は計り知れません。
子ども自身に“自分の気持ちをしっかり先生(周りの大人)に伝える”ということを課題に社会に送り出すことが大切です。
子どもの伝えてきた言葉に耳を傾けることができない先生は“指導力”以前の問題です。
子どもから先生に伝えても聞いてもらえない…というサインがあれば保護者の援助が必要になると思います。
この現状が“完食指導”の賛否両論に繋がっているように思います。