11月になると、元職場の収穫感謝礼拝を思い出します。(キリスト教の保育園でした)

秋の恵みを神様に感謝する礼拝です。神様が太陽のエネルギーを下さる、恵みの雨を降らせて下さる、だから作物が育つ「神様ありがとう」と感謝の気持ちをもって礼拝を守ります。

この日は各家庭から果物や野菜を持参してもらいます。その果物や野菜を囲んで礼拝を守るのです。

おばあちゃんの家で出来た枝のついた柿を持参してくれたり、りんごやみかん、サツマイモ…などを嬉しそうに持参してくれたり、保育室は果物や野菜のいい匂いに包まれます。

礼拝後は、果物や野菜を箱に詰めて分け、日頃お世話になっている地域の方々へ「ありがとう」と子どもたちが届けに行きます。

この日は「ありがとう」の気持ちでいっぱいになる日です。

一粒に込められている思いとは…。

子どもと食事をする時は、茶碗のご飯は一粒、一粒を大切に残さず食べましょう!と伝えています。年齢が小さければ保育士が茶碗のご飯をきれいに集めて子どもが食べやすいようにします。

保育士が一粒、一粒を大切にしていると、自分で茶碗のご飯を集めるのが難しいと感じた子どもは「きれい、きれいして」と保育士に援助を求めます。

これは「ご飯を集めて」の意味です。茶碗のご飯がきれいになくなれば「ピカピカ‼」と子どもは嬉しそうに茶碗を見せてくれます。

また、米一粒に込められている気持ちを子どもに伝えることを大切にしています。

お米を作る人は、おいしく育つように願いを込めて作っていること、食べもらった人に元気になってほしいこと、太陽や雨の恵みがあるからお米が育つこと、そして、お米を炊いてご飯を作ってくれる人がいること…などです。

米一粒には、たくさんの人や自然の心が詰まっているということです。

人として欠かせない…と思うこと。

私はキリスト教の保育園に勤めていたから、感謝の気持ちをもつことが大切だと思うのではありません。クリスチャンでもありません…。

人として生きていく上で、感謝の気持ちをもつことは欠かせないと思うからです。

そのひとつとして、食を通して感謝の気持へどう繋げていくか…ということです。

人の価値観はそれぞれですが、大人でも茶碗にご飯がたくさんついている状態で“ごちそうさま”をする人がいます。

米一粒に思いを込めて作っている人がこの茶碗を見たら、きっと悲しい気持ちになることでしょう…。

食べることは当たり前で、感謝の気持ちには繋がりにくい人なのかな…と思います。

これから大人になる子どもたちには、食を通してたくさんの人や自然に感謝の気持ちが芽生えるように日々関わりたい…と思う私です…。