先日、みえハウスでのこと…。お子さんがご飯を食べている時、お母さんが来られました。お子さんは年少クラスです。
もう少しで食べ終わるお子さんのお茶碗には、ご飯粒が残っていました。お母さんは「ご飯粒を残したら目が潰れるねんで」
と言いながら、お茶碗に残っているご飯粒をきれいに集めてあげていました。私は、この言葉を聞いて “あ~~懐かしいなぁ” と思いました。
昔、祖母がお茶碗に残っているご飯粒をきれいに食べられるように、お茶碗にお茶を注いで、そこに塩昆布を入れて最後まで、きれいにご飯粒を食べていた姿を思い出したからです。また、それがとても美味しそうだったのです。
いつも祖母のお茶碗はピカピカで、幼心に “きれいやなぁ~” と思っていました。
そして、この言葉「ご飯粒を残したら目が潰れるねんで…」と。子どもでしたから、サラッと聞いていましたが、大人になった今、この言葉にどのような意味が込められているのか調べてみました。
大切なのは感謝の気持ち
「米には三柱の神(三体の仏)が宿っている」「米は天照大御神の目」「ご飯粒を残す人は出世しない」など諸説があるようです。
昔は、米には神様が宿っているから、米の食べ残しをしたらいけないという戒めがあったのでしょうね…。
また、「米を食べるためには、八十八もの手間がかかる」と言われますが、ご飯ひと粒には、たくさんの人や自然の心が込められています。
お米に神様が宿っていると考えたり、お米を作る人が込める心を考えたりすると、お米を粗末にすると罰が当たる!と素直に思ってしまいます。
罰という角度から、このようにも言われています。“目が潰れることは昔の人の生活にとって、非常にリスクを負うことなので、こんな大切な米を粗末に扱う者には罰が当たる!という意味から「ご飯粒を残すと目が潰れる」と言われるようになった”と。
こんなリスクを負えば、出世どころではないですよね…。やはり、お茶碗のご飯ひと粒、ひと粒を粗末に扱うことなく、感謝の気持ちをもっていただくことが大切ですね。
どのような感覚で受け止めますか?
「目が潰れる」は「芽が潰れる」とも言えるのではないか?という意見もあります。
有り難みが分からずに食卓に出された命を粗末に扱うと、自分自身の「命の芽を潰す」ことに繋がるのではないか…。
最終的に「芽」を潰して、何も残せない人になる…と昔の人は言いたかったのではないかと。
この意見に私は共感しました。未来ある子どもが食べ物を粗末に扱い、未来の芽が潰れたら嫌だなと思ったからです。
今の時代「ご飯粒を残すと目が潰れるなんて言葉、聞いたことない!!」という人や「迷信、迷信」と片付ける人はいると思います。
時代の流れで、知らない言葉があることは当然で、言葉をどのような感覚で受け止めるかは自由かもしれません。
でも、そのことが食べ物を粗末に扱うことに繋がるのは嫌だと思います。
子どもの未来の芽を潰さないように、私は子どもたちに関わっていきたいと思います。