「孤食」という言葉を耳にしたことはありますか?この言葉の意味は、食事をする際に本人の意思とは別に一人で食べることを決定されてしまう、孤独を感じてしまう、その孤独によって辛いと感じてしまう…ことです。

子どもの場合では、家族が不在の食卓で一人だけで食べることです。また、塾のために子どもだけが外食をせざるを得ないこともあるでしょう…。

私の友人は中学生の時、生まれて初めて一人で外食をして塾に行き、帰宅してから泣いたそうです。友人の家庭は、共働きでしたが祖父母も同居しており、食卓で一人になることはなかったと言います。その分、一人で外食をせざるを得ない状況は緊張と不安で一杯だったのでしょう…。

形だけでは、意味がありません…。

「孤食」という言葉が、世の中で問題視され始めたのは1980年代からです。バブル期に入り、都市化が進み核家族世帯が増え始めました。そして、現代では核家族が一般的になりました。

そんな生活環境の中で、「孤食」が続くと、好き嫌いを注意してくれる人がいないので子どもは好きなものしか食べなくなる、栄養が偏る、コミュニケーションをとりながら食事をしないので、社会性や協調性に欠ける大人になる…など、色々な問題点があげられています。

だからといって生活環境を変える、共働きを辞める、とはいきません…。

対策としては、家族揃って食事をする日を決める、お好み焼きや鍋など、みんなで調理できるメニューにする、みんな揃って朝食をとるようにする…などがあります。

しかし、家族で食事をしていてもテレビを見ている、スマホをさわっている…では形だけの家族の食事です。対策方法も形だけでは、意味がありません。

当たり前と思えば、気付けない…。

私は、共働き家庭のお子さんを預かってきた保育士時代、お母さんからこんな言葉をかけられました。「こんなに小さい時期から保育園に預けることに罪悪感があります」と…。でも、お母さんが職場復帰するためには子どもを預けなくてはいけません。お母さんも複雑な気持ちだったのでしょう…。

しかし、乳児期から保育園に預けられても、別れ際の涙は日が経つにつれ笑顔でバイバイできるようになります。子どものもつ順応性、逞しさは素晴らしいなぁといつも感じました。

罪悪感はマイナスな言葉ですが逆に言えば、子どもへの愛情の表れです。

共働きは当たり前、子どもを預けることは当たり前…という考えでなく、大人の作る環境により子どもを預けることになる…と気付いていれば、共働きで忙しい毎日でも、仕事が休みの日は子どもと過ごす時間を大切に設けることでしょう…。

「孤食」においても、同じことが言えます。大人の作る環境により子どもが一人で食べることが多くなる…と大人が気付いていれば、形だけでない子どもとの食事のひと時を設けることでしょう…。

“大人の作る環境で子どもは過ごしている”ということに大人が気付いてこそ、工夫をして子どもに愛情を注ぐことが出来るのではないでしょうか…。